観(み)るということ
9歳の頃に油絵の具で描いた自画像。なんという耳の大きさでしょう!子供の絵ということでもろもろ許してください。5歳を過ぎ近くに住んでいた西洋画家のアトリエに出入りするようになったのは今から考えても自分にしては思い切ったなと思うけれど、ここでの様々な経験は今の自分を形作っていると思う事が良くある。
アトリエに出入りするようになってからというもの早く油絵を描いてみたかった少年は油絵の具やその匂い、筆の種類や、それらを入れる木の箱に興味津々。しかしながら、数年間は油絵に触らせてもらえることはなかった。その数年間でやっていた事と言えば、うら山(当時はそういう名前だと本気で思っていた)に行き植物や昆虫や鳥を観察しひたすら鉛筆をもってスケッチしたり、自分が美しいと思うイラストや日常にあるモノを模写することだった。
「自然にみえてくるものと自分からみるものは違うのよ」。いつもそっと呟くように対話をする先生から出た言葉の意味がわかるのはもう少し先になるのだけれど、この時確かに観るということの基礎的な訓練が実は行われていたのである。余談ではあるけれど、ゴキブリやミミズ、トカゲも当時は怖くなかったのでつかまえては観察していた。さらには、ウォーホールの缶やモンローの絵を模写するという今考えればちょっと趣のあることもしていた。
ある日、やっと先生から「そろそろ油絵を描いても良いかもしれない」とのお言葉が。身体の使い方を覚えた子供がようやく競技を行うところまできたわけである。道具を買いそろえ筆の使い方などの基本的な作法を教わり何枚か試し描きをしたあと、自分の描きたい対象物として「自分の顔」を選んだ。ゴッホの画集がアトリエにあったからということが影響していたのかは分からない。結局少年はのめり込み、一枚の絵を完成させるのに数カ月を擁した。
観察
顔のサイズやそれぞれのパーツのバランスについて:鼻だけが少し全体にくらべ小さいこと。水平垂直で考えた場合にいたるところにある顔の歪みについて:例えば、右目より左目が下がっていたり、鼻の穴の高さも違うこと。
観察を続ける中で自分を驚かせた事は「右目と左目の色がほんの少し違う。」ということに気付いた時だった。大人になったいま、光のあたり方やまわりの環境によって微妙に左右の色は変わることは分かるけれど、当時の少年にとっては衝撃的な体験であり、今この絵をみてもそういった活き活きとした観察の跡がみてとれる。
観るための訓練や準備をしておくことで、僕たちのまわりに存在する日常をみわたす精度があがる。そのことによって僕はこの世界にワクワクすることができた。
自然に見えてくることと観る事は違う。そしてそれらは連関している。画溶液の香りただよう西洋画家のアトリエで学んだ僕にとって大切なこと。